切ない、苦しい、辛い。それくらい覚悟するのが恋の本筋
1+1=2というのは恋ではありません。
どんな恋も正解です。
決して間違っている恋などありません。
私は間違っているんじゃないか、もしかして…
というのは、恋にはないことなのです。
恋人を選ぶときにまっ先に注意して欲しいのは、自分は本当は求めていないのに寂しさなどで求めてしまう。
そういう男を正解だと思い込まないということです。
確かに危険な男性がいいと思う、スパイスがいいと思う気持ちはあるけれども、スパイスはスパイスでしかないのです。
スパイスだけではお腹はいっぱいにならない、ということをぜひわかっておいて欲しいなと思うんです。
本当の理想を得るためには、途中のみっともなさを乗りこえて我慢する。
中途半端なときの自分の許容量(許せる範囲のこと)みたいなものって、恋にとってもすごく必要なことだと思います。
恋とか人生とかは、一枚の白い画用紙に絵を描くようなもの。
あんな絵、といわれでも自分が描きたい絵を描く人と、人から賞められたいと思って絵を描く人と二通りいる。
私なら自分の描きたい絵を描きたい。
恋も同じです。
自分がいいと思えば本当にいいと思い込める。
自分に対する自信あるのみです。
自分も賭けなきゃ、相手も賭けない。
なのに近頃は、自分は斜めの逃げ腰で相手だけ賭けさせたいという、虫のいい恋愛模様が多すぎる。
こんなにしてあげたのに、とかこんなに私は彼に尽くしたのにと思う人ほど相手からみると、的はずれで身勝手な愛情しかふりまいていない。
切ないし、辛い、苦しいことの連続…
でもそのぐらいの覚悟をするのが恋の本筋だと思います。
例えていえば、古くなった恋の間柄は、カサブタみたいなもの。
見たらみっともないんだけど、それを無理にはがすと血は流れ痛い。
次の新しい皮が貼るまでは痛くて、痛くて、何かに触れるたびにズキンとする。
恋というのは、どれだけ数を重ねても、相手に想いをかけるとスタート地点に戻る。
若いあなたに、多少のミスがあろうとも、生涯たった一つの恋を大切にするためには、これからの「無用な恋の重ね着」はしないことです。
恋にはいろんなケースが起こりうるのです。
故に何もかもに自分で規制をつくったら、一歩も前には進めません。
愛情とは分配するものじゃないし、女性の愛はとくに光のように分散するものじゃないのです。
深く真直ぐに矢のように進むものだと私は思ってます。
恋というやつは、どこかで追っかける方が、実は醍醐味なのです。
相手に追いかけるだけの距離を、つき放してあけておいてやることこそ、貢がれる男性の務めであり、エチケットなのです。
人間誰しも、好いてくれている相手のことはどこを好意的に見てあげたい、という気持ちだって芽生えているのですから、あっさり好きだと言っちゃった方がいいのかもしれません。
恋というのは、二人が五分と五分で対立して、話し合ったり悩んだりして、ようやくひとつの花を咲かせるもの。
相手がどう思っていようといい。
恋などというのは所詮、一方通行の情熱の炎なのです。
人に惚れる、人を好きになれる、燃えられるというその感情だけが大切なのだ。
肉体的構造において、やはり女性は抱かれることイコール恋愛ですよね。
男性の場合は性欲は食欲に似ている。
女性にとっては精神に繋がる愛撫です。
どうか愛をお金に、恋を回数にたとえないでください。
片思いというのは相手も、私のことをひとりの女性として意識して、気持ちの交差というか、こっちから一方通行でやるんじゃなくピンポン球みたいに気持ちがどこかで行き交っているのに、相手のことがままならない。
それで初めて片思いという図式が成立する。
恋に苦しむのは、あなたの愛の泉がまだ枯れきっていない何よりの証拠です。
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