秘密や心理的スペースは二人の間に必要なこと
「恋人であれば、互いにすべてを理解しあうべきなのか」ということについて、少し考えてみよう。
「愛しあっているなら、すべてを理解しあうべきだ」という考え方を盲信している人に、よく出会う。
「二人の間には、何の秘密もないようにしようね」に感じられる。
「私はあなたとの間に距離をおきたい」という言い方でなく「自由なスペースが必要だ」という言い方をすると、受け取り方が変わると思う。
スペースとは、人が自由に動くために必要な要素なのである。
そして、この自由は、 成熟した人格にとって不可欠なものなのだ。
だから、相手を自由にする(もともと自由なのだから、自由にするという言い方)といった約束をする人も多いようだ。
自分がそれを絶対に守れるかどうかまでは、つきつめて考えずに、とにかく愛しているのだから、相手には自分に対して何も隠すようなことがあってほしくない、と願うのだろう。
私も、結婚した当初は、やはり妻との間に秘密などない関係が理想的だと思っていた。
しかし、いまの私は、夫婦の間で何もかも話すことが、常にベストだとは思っていない。
別々の人格をもった二人の人間が、どうしてすべてを理解しあうことができるだろうか。
理解するべきだと考え、最善の努力をしても、それは実現不可能だ。
私は、二人の間の時間的、物理的距離は、別々の個性をもった人間であるならば、どうしても必要なのが心理的スペースなのだと思う。
距離というと、何かネガティブな感じがするが、スペースというと、ポジティブ(倣慢かもしれない)ことによって、相手を愛する愛し方のほうが、相手を縛る愛より、私には心地よい。
自分のマツゲが見えるくらい「本当の自分」に目を向けてみる
二人の間に時間的・物理的に(心理的にも)スペースがないと、相手がよく見えなくなることがある。
近すぎると、目の前にある部分はよく見えるけれども、相手の全体像が見えなくなる、ということが生じるのである。
そして、その見える一部分によって、相手を判断し、批判したりしてしまう。
すると相手に、「そんな細かいことで私の行動を非難したり、愛情を疑ったりしてほしくない」と思わせてしまう。
私が以前住んでいた沖縄に、こんな言葉がある。
「ケラマミーシガ、マチゲミーラン」
慶良間とは沖縄本島の近くにある島々のこと。
「慶良聞の島々は見えても、自分の捷毛は見えない」ということだ。
つまり、「遠くにいる人のことはよく分かっても、一番近くにいる自分のことは分かっていない」という意味に使われているようだ。
同じ近づくなら、自分の気持ちにウソをつくより、自分の心に近づいたほうがいい。
そうすると、ある距離をおいたところからケラマ (慶良間)が見えて、その美しさも再発見できるのではないだろうか。
倦怠期で確認すること
倦怠期というのは、どんなカップルにも一度は訪れるでしょう。
そこで、倦怠期の時に確認してほしいことがある。
それは、『相手の事を今自分がどう扱っているのか』
ここについて確認するべきでしょう。
人間というのは、相手に求めすぎるあまりに、自分が見えなくなります。
・相手にばかり求めていて、気づけば自分が大事に出来ていなかった
・優しくされていないと思ったけど、振り返ると自分がそうなっていた
・喧嘩ばかりの原因を考えなおすと、自分が原因なことが多い
・いつも怒っているのは自分だった
上記のような事にもしかすると当てはまっていないでしょうか?
倦怠期とは、相手ばかりが悪いのではありません。
ですから、一度是非自分の行動を再確認してみてください。
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